廣誓寺

石川県金沢市にある寺、廣誓寺。

廣誓寺の歴史
1598(慶長2)年

金沢市の砂丘地帯・五郎島地区に、不破家が真言宗安養山廣誓寺を建立。不破家の菩提寺となる。

1650(慶安3)年

廣誓寺が現在地に移転。

境内2000余坪(現在は1000坪)に、七堂伽藍を完備した寺院を建立。

曹洞宗本源山廣誓寺とした。

■不破(河内守)光治

美濃(現在の岐阜県)の土岐氏、斉藤家に従臣。

斉藤家滅亡後に織田信長の家臣となる。

後に安土城代を経て、福井県越前市の龍門寺城に、子・直光とともに移動。

1580(天正8)年12月14日、越前一向宗との戦いでその生涯を閉じる。

■不破直光(通称:彦三)

光治の子。本能寺の変で織田信長が討たれた後、前田利家の武将となり、

現在の石川県金沢市彦三町に大屋敷を構えた。1598(慶長3)年、8月15日没。



現在も廣誓寺の堂宇には不破光治と子・直光が並び、不破家一門の位牌が祀られている。



山門
山門
本堂
本堂
不破家一門の位牌を祭る堂宇
不破家一門の位牌を祭る堂宇
廣誓寺の歴史

道元(どうげん)禅師が、求道のため24歳で中国へと渡ったのは、南宋の時代、1223(貞応2)年のことです。

正師を求めて中国の諸山を遍歴するなか、26歳の春、曹洞宗の流れをくむ天童山景徳寺(てんどうざん けいとくじ)にたどり着き、そこで住職を務める如浄(にょじょう)禅師に出会い、釈尊以来となる正伝の仏法(しょうでんのぶっぽう)を受け継ぐことができました。


修行を終え、1227(安貞元)年に28歳で帰国した道元禅師は、『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著し、正伝の仏法を説いていきます。一方、真の求道者を養成するため、宇治の興聖寺(こうしょうじ)、さらには越前の永平寺(えいへいじ)を通じて、一人でもいい、半人でもいい(一箇半箇)との願いを込め、正しい教えを伝えるべく尽力されました。その傍ら、生涯をかけて『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を著されます。


この道元禅師の精神は、後を継いだ永平寺第二世の孤雲懐弉(こうん えじょう)禅師、永平寺第三世で加賀の大乗寺(だいじょうじ)を開かれた徹通義介(てっつう ぎかい)禅師を経て、その弟子瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)禅師に受け継がれていきました。そして瑩山禅師のもとでは、後に永光寺(ようこうじ)を継ぐ明峰素哲(めいほう そてつ)禅師、總持寺(そうじじ)を継ぐ峨山韶碩(がさん じょうせき)禅師など、多くの優れた人材が輩出しました。


こうして日本各地に曹洞禅(そうとうぜん)が広まっていったのです。

曹洞宗と同じく中国禅宗を源とする臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、 曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依(きえ)を受け、もっぱら地方へと信仰の根を下ろしていくのでした。

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